過疎化対策
まだ何も建っていませんね。ここに博物館ができる予定と聞いています。
XZ-2にてパノラマ写真を撮ってみました。ソニーだとスイングパノラマが利用できるのですが、こちらは一枚一枚撮影してパソコンで合成するパノラマ写真です。撮るのは簡単ですが繋目が粗いですね。
ソニーのスイングパノラマはシャッターを押している間にカメラをぐるりと回せば自動的にパノラマ写真の出来ががりです。コンデジの場合は違いますが、ミラーレスでのスイングパノラマは、シャッター音が物凄い、ぐるりと回る間に十数枚か数十枚の写真を撮りそれをカメラ内で合成します。その時のシャッターの連続音は迫力ものですね。周りが気になるほどヤカマシイ。写す枚数が多いので綺麗に合成は出来ますけどね。
オリンパス式はモニターの左右にガイドが現れそれに沿って写真を順次撮っていく事になります。モニターの場合だとカンカン照りではモニターが見えにくく写しにくい。写した後でパソコンに取り込んで画像を指定すればこれも自動で合成できます。ソニーのがスマートですね。今はどこもスイング式でカメラ内合成パノラマが出来るようですけど。
下に写っている歴史民俗資料館も博物館が出来る時には取り壊しだそうですね。せっかく入口を綺麗に改装したばかりなのに。対馬市って計画性あるの?
コメント欄に書いたのですが、コメント欄では誰も見ないだろうからこちらにも書きますね。対馬島内には空き家が多くあると思います。厳原市内だって空き家はあちこちありますが、その空き家を簡単で良いのでリフォームし住めるようにしてから、安く提供出来れば住みたいと思う人はいると思うのですよね。対馬市は過疎化対策をやっているのでしょうか、やっているようには見えないのですが。こんなことはいろいろな過疎化に悩む自治体でやっている事だと思います。もちろんそのような空き家利用は島外の人に限るとして大いに活用すれば良いと思います。
定年退職した人なら対馬島内に仕事場が無くても良いわけですからね。晩年を静かな対馬で過ごしてもらう。そんなキャンペーンでもやってみたら良いと思うのですが。対馬市は何もしないのでしょうか。65歳過ぎて対馬に移住、10年、15年その空き家利用で住んでもらい、そのあとはいづはら病院跡を老人ホームにでもしてそこを終の棲家としてもらう。なんでも良いから過疎化対策に真剣に取り組んで欲しいものです。
住む人間が居なくなれば対馬はお終いですよ。
先ごろテレビでもあっていましたね。過疎の田舎に25年住んでくれれば行政が家を建ててくれるとか。家を建てなくったって空き家利用でそこに住んでもらう、空き家の家主には少しばかりの家賃を行政が払えば良いわけですよね。家主も空き家をそのままにしておくよりも良いと思う。家を建ててやり、100坪の土地も進呈するよりはそのほうが安上がりだと思う。対馬市は過疎化対策なんて何かしているのだろうか。マスコミが寄ってくるような、アッ!と言うような対策は何も無いのか。
対馬にとって考えなければいけないのは病院よりも、病院は大事だけど今ある立派な病院を廃墟にしてまで作る必要があるのか。それよりも過疎化対策の方が大事だと思うのですが。病院作ったって人が居なくなれば意味がない。
by tsushimaisland | 2014-03-25 00:28 | その他 | Comments(14)
というのは、幼稚園の頃はまだ、そのまま枡形が残っていたのです。石橋もありました。なんですか、石橋は目の敵のように町なかから撤去されましたね(笑)。
重機のなかった時代に石を組み上げる技術は大したものだと思ったのですが、記録など、残っていないのでしょうね。
石碑がやたらと増えたそうですが、通信使碑は西山寺の下を埋め立てずに残してそこに据えたほうが良かったですよね。
この碑の場所も、確かに文化八年には宿舎になったので、外れてはいないですが。
厳原で誇れる遺産は、石を組む技術と組まれた建造物や庭石、焼き物だと、私は思っています。無くなってからわかるんですよね。
本当に無くなってからわかりますよね。
グランドだった部分も建物あとの整地で、当時の中学生は汗を流したと言っていました。
どれほど固定資産税を払っておられたのでしょうね。
そなんですか、清水が丘は宗家の寄付だったんですね。そう言えば清水が丘の庭園とか櫓門の石垣等を清掃をしたような気がします。今思ったのですが、私が中学生の頃は櫓門あったかな?と記憶が定かではありません。石垣だけだったような気もする。
だけどあの中学校は思い出がありますね。やっぱり木の校舎って趣がありますね。
お文庫に精密な模型が残っていたから、出来たことだそうですが、門の裏の石段は幅が広げられてしまっていました。
私の頃はソメイヨシノが一本ずつ植えてあり、留置所の塀とか立亀とかが石垣越しに見えていました。
もとはどんな建物群だったのでしょうね。文化八年の際の宿舎になった時の平面図は見たことがありますが、絵図ではなかったです。
この石垣に登れば立亀が見えるのはわかるのですが、留置所も見えたんですか?留置所は久田に今はあると思うのですが、ここからだとそこは見えない気がするから、昔は別の所にあったのでしょうね。
留置所は、今の旧役場の建物の場所です。宗家の米倉だったので立派な石垣が「塀」になって、その上を灰色のレンガを積んでありました。
幼稚園の川向こうということになりますね。
櫓門って売られたのですか?宗家が櫓門を売って何処かに廃材として持っていかれたか、それともどこかにこれが建っているかでしょうか。そうでしょうね。私が中学校の時には櫓門は無くて石垣だけだったと記憶しています。なんだか地元にいると何か建物が無くなっても、かってそこに建っていた建物が何だったのか忘れるものですね。
今の市役所の場所に留置所があったのですか、そうすると昔はどこに役場があったのか、思い出せないものですね。役場なんて子どもには関係ありませんからね。
国分寺の客館も江戸末期ごろに売られて行ったという記録はあるのだそうですが、どうなったかわかりませんね。
役場ですか?幼稚園の入口手前の坂を上がったところです。
みんな近所の子供たちが三角ベースで遊んでしましたよ。木もたくさんあって虫取りもかくれんぼも出来ました。
役場に親の使いで行ったことがあります。顔を出すなり、「あ、こっち、こんね」と(笑。
移築されて残っているとうれしいけど期待薄でしょうね。
国分寺も古いですよね。古い物が売られていくのは悲しいですね。絵画とかも日本よりも外国に拓山あるのかもしれません。
ビジターセンターの所に役場があったんですか?それは全然知りませんでした。そのころの役場って全然記憶にありません。子どもには関係のない場所ですからね。
そうなんですか、町役場って昔は小さかったのですね。ビジターセンターの前は何だったのか想像もしていませんでしたけど、テニスコートの跡でしたか。その当時にテニスコートとはなかなか洒落ていますね。
今でも敷き詰められている石畳の石が石屋根の石だったとはこれも知りませんでした。今だったらブーイングものですね。史跡を取り壊すのですからね。今は防火壁でさえ取り壊しは難しい?取り壊さないでくれ。と市から要望が出されるそうです。
武家屋敷もその庭も、ほとんど無くなってきたそうですね。
テニスコートは役場と、支庁と、高校にもありました。結構盛んでした。
そうですか、皇太子様が来島されその歓迎場所としてビジターセンターが出来たのですね。これも知りませんでした。まあお偉い方が来られると道が綺麗になるとか言いますよね。
高校のテニスコートは知っています。高校の時にはテニス部でしたから。軟式でしたけど。うちの娘も中学校の時はテニス部です。息子は剣道、私も剣道をしていたし、嫁もテニス部でした。なんだか血筋なんでしょうね。